家族という病

今日はこの本を読みました。
著者は父、母、兄の4人家族だったが、そのいずれとも心が通わないまま永の別れをきたす。
家族とは何なのか。
ご本人の体験に加え、周囲の人たちのそれぞれの家族のカタチを例に挙げ、話を進めていく随筆調の一冊。
筆者は一貫して同居する血縁者+配偶者によって形成される伝統的家族の形を否定する立場を取る。
血のつながり、DNAによる家族というものは重要ではなく、むしろそれらを重視するというのは心が通っていないため、縋っているだけなのだと筆者は主張する。
海外での血のつながらない子供を養子にし、家族として大切に育てている例や、疎遠になった家族よりも地域住民の結びつきの方が強い例などを論拠としている。
筆者の父は元将校であったが、感情の起伏の激しさや敗戦後も右傾化し、それを娘である筆者は受け入れることができなかった。また、兄は父の連れ子であり筆者にとっては腹違いということになる。そのせいか、母は娘の筆者に特に執着したとのこと。
こうした家庭状況もあってか、家族という共同体よりも個の方が重要であるという価値観になったのだろう。
筆者は小学生の時に敗戦を迎え、激動の時代を生きた人である。
本人は元々はノンポリ(政治思想のない)だったと語っているが、学生運動をしていた周囲の影響なのか、私から見るとずいぶん赤い思想の論説も多いように感じた。
「家族という病」というタイトルだが、私にはむしろ「家族を憎悪する病」のようにも感じた。
周囲の人が家族の話題を持ち出すことを心底嫌っており、自身も家族については聞かれなければ語ろうとしないスタンスを取っている。
正直あまり親密でない間柄では話題も限られ、ある程度の年齢になると自分の子供や孫の話をするのはごく自然なことだと私は思うが、どうも筆者は不満らしい。
また、筆者は夫のことを「つれあい」と呼んでおり、作中でも「つれあい」と記載されている。
以前インタビュー記事で「つれあい」から「主人」に変換されて記載された際は再度修正を求めるほど明確なこだわりを持っているようだ。
記事を書いたライターは実際大して思想があるわけではなく、万人にわかりやすい形で翻訳したつもりが、とんでもない地雷だったわけである。
個人的には他人の夫を呼称するときに「旦那さん」「ご主人」が一般的であると思うが、これらに不満であるなら早く理想的な呼び方を告知していただきたいと思っている。
こちらはご主人=家の主などとは毛頭思っておらず、ただ一般的な表現を使用しているだけに過ぎない。
家族への憎悪としては、ある家族連れが飛行機で窓際の老夫婦に聞こえるように「窓際に座りたかった。代わってくれればいいのに。」と発言し、老夫婦はやむを得ず席を代わったというエピソードが挙げられている。
よく聞く話だが、私はこうした席替え要求ファミリーに出会ったことは今までない。ラッキーなだけなのか?
むしろ路上喫煙、クレーマー、大声でうるさい高齢者に辟易とすることばかりだった。
別のエピソードとしては、公共交通機関で席が空いた時に親が子供を座らせることについて語られていた。「〇〇ちゃん、空いたわよ。」と言って座らせるのが筆者は気に食わないらしい。
どうも海外でバスに乗った時に60代だったが席を譲ってもらえたのに対し、日本ではあまり譲って貰えないと不満なようだ。
正直優先席でもない限り、目の前の空いた席に座るのは誰の勝手である。
日本はあまりにも高齢者が多いので、いちいち譲っていたらキリがないし、正直それぞれ事情があるのであまり外見だけで判断するのもいかがなものかと思う。
(内臓の疾患がある人、これから試験や面接を受ける人、すごく疲れている人など)
高齢者に席を譲ることはいいことだとは思うが、受益者が要求するほどの権利ではないだろう。
特に日本では年金や社会保障の点で世代間格差が大きく、多額の社会保障費を負担している現役世代が仕事帰りに、日中遊んでいた高齢者に席を譲るのはかなり器が大きくないとできない所業であろう。
未来ある子供が席に座ったくらいで顔を真っ赤にしているのはまさしく老害である。
本書を通して面倒な高齢者の生態がなんとなくわかった気がした。